『田園の詩』NO.18  「セミ、春秋を知る」 (1994.9.13)


 名言や格言などを載せたカレンダーがあります。私の所は仏教寺院なので、信者の
方の生活の指針となるように、仏典の中の文句や、多くの言葉の中から仏教の教えに
合ったものを選んでカレンダーは作られています。

 そんな中に、『セミ、春秋を知らず』というのがありました。「夏に生まれて、すぐ死ぬ
セミは、春や秋、または冬を知らないので、本当の夏の姿を語ることはできない」と、
解説が添えられていました。

 仏教では、前世や来世を問題にします。「人は何処から来て、何処に行くのか」と
いうことを、全く問うことのない人間(つまり宗教に無関心な人)は、この世での本当の
生きる意味も分からないと、セミを例にとって教えようとしているのでしょう。

 しかし、セミは本当に春秋を知らないのでしょうか。確かに、セミは夏に出てきますが、
それは羽化するためであって、今、生まれたというのではありません。何年も前に生まれ
て、土の中で暮らし、夏になると出てくるのです。セミが、春や秋や冬に出てきたという
ことを聞いたことはありません。(勿論、春のセミ、秋のセミはいると思いますが。)

 セミが季節を間違えないのは、土の中で暮らしていても、春や秋や冬を、ちゃんと知って
いるからでしょう。セミは自分の出る季節を違えず現れ、太陽のもとで精一杯に生命を燃
焼させて、そして死んでゆく。このセミの生き方に、教わることは沢山あるようです。先の
カレンダーの言葉は表面的なことしかとらえていないと、私は思っています。

        
       
      ネギ坊主の蜜を吸う(有るのかな?)キタテハです。越冬したのでしょうか。
        羽根が痛んでいます。セミの写真が撮れたら替える予定です。   (08.4.20写)



 今、私は、女房の待ちに待った法師ゼミの鳴き声を聞きながら、この原稿を書いてい
ます。「法師ゼミが鳴き出すと涼しくなる」と、春にウグイスを待ち焦がれるのと同様、夏
に弱い女房は秋を待つのです。

 私の小学校の夏休みといえば、セミ捕りが日課のようなものでした。昔、遊んでくれた
セミ、いじめたセミに、この文を書くことによって、感謝とお詫びの気持ちを表すことが
できたような気がします。                   (住職・筆工)

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